琴線に触れた言葉をツイートで見かけたので保存保存。
チキンなのでツイートを見て思ったこと考えたことを
書き連ねてみます。
反論のつもりはありませんですぜ、と一応前置き。
いろいろと考えさせられたのはこちらの、
ガトー・ケイコさんというお方のツイート。
目次。
ちっちゃなころから「みんなに好かれようとしなくたっていいんだよ」というようなこと言われてきたけど、みんなと仲良くしたいし好かれていたいとおもっていた。恥ずかしながらいまごろわかった。あれ、何をどうしたって嫌ってくるひとはいるからしかたないのよ、を優しく言った言葉だったんだなあと
— ガトー・ケイコ (@amazakeiko) 2016年4月4日
うん…そういう意味…なんだよね…
全人類に好かれるのなんてムリなんだよ…
「みんなに好かれたい」と思ってた
なありも「みんなに好かれたい」「みんなと仲良くしたい」
という脳内お花畑な考えを持っていました。
「なにをやっても嫌う人はでてくる」と言われても
「いやいやガンバレば不可能なことはない!」という
無意味にアグレッシブかつポジティブなことを考えていた、
そんな青い時期がなありにもありました。
不可能だと知る
でも、正直「みんななかよく!」という考えはうざい。
うざがられるもの。
なありは鈍い子供だったので、幼い頃は人の悪意に鈍感でした。
でもある時ふと気づいてしまったのです。
「あれ、この人私のこと嫌ってない?」
と。
そこからあれよあれよと人間不信まで突っ走る。
なぜならわからないから。
それが本当に好意からのものなのか、
いわゆる「大人の付き合いの一環」なのか。
その、判別がつけられなかった。
人の好悪に長いこと無関心だったツケを
現在進行形で払わされてる。
こころを病む
そして、いろいろあって心を病む。
きっかけは、
他人に好かれたいあまりに
「人の視線を気にし過ぎたこと」
それからツイートにも在るように
「なにをどうやっても嫌う人が存在すること」
なにもやってなくても「きもい」「しね」
っていわれることはあった。
何故嫌われているかわからないことがたくさんあった。
原因は自分にあるのだと思う。
でも、みんなに好かれようとして
「すべて私がわるいんだ」と自分を抑えこんだ結果。
いいように使われて、言葉を話すのが怖くなって
人とふれあうのが怖くなって、友達とも話すのが怖くなって
結局こころを病んだだけだった。
みんなに好かれるのはムリ。
みんななかよくするのもムリ。
できるのは「表面上仲良くしているようなフリをすることだけ」
「他人の視線を気にしない」=「嫌われてもいい」
だからこそ、嫌われてもいい。
誰かの視線を、評価を気にしない、ということが大事なのだと思う。
もちろん反社会的な行為や誰かをワザと傷つけるようなことは
してはいけないけれども。
「みんな仲良くはムリ」と割りきって、
「好かれなくてもいいや」と開き直ることが大切。
「無神経な質問」
二人めは? ひとりっ子はかわいそう、というお言葉に「わたしまだ産める年齢に見えますか?うれしい!」と満面の笑みで返すようにしたら一様にみんなひるむ。土曜日も保育園にあずけてるの? かわいそう、というお言葉に「保育園が楽しくてたまらないみたいで」と笑って答えるとやっぱり同じ顔をする
— ガトー・ケイコ (@amazakeiko) 2016年4月4日
申し訳無さそうな顔をするのをみんな予想するんだろうな。
大抵の人はそうやって「無難な回答」をするから。
ということは、かわいそうと言ってくるひとが期待してるのはわたしが落ちこむことなんだな。好きなひとが落ちこむところはあんまりみたくないはずなので、かわいそうと言ってくるひとはわたしのことが好きじゃないひとなんだ。それならわざわざ期待に応えなくてもいいよな。笑ってやりすごそう。
— ガトー・ケイコ (@amazakeiko) 2016年4月4日
「二人目は?」という質問はセクハラに値すると聞いたことがあります。
子供はごにゃごにゃして授かるものなのでつまるところそういった
【大人のコミュニケーション】はいつするのかというのを聞いていることになるので。
でも、こういった質問はよく耳にします。
そしてついつい口にも出してしまいます。
(なありにはそういう話題を話す相手がいないけどな)
こういう話題を出す人は特に何も考えていなくて、
たぶん世間話の一環なのだと思う。
「無難な回答」
なんとなくなのですが、
一人っ子だとかわいそう
保育園に入れるのはかわいそう
というのが世間一般的に多い意見、なのかな。
もしくは傍から見ていてそう感じる人が多いということ、なのでしょう。
多くの母親はその質問に対して困ったような顔で
悲しそうな顔で申し訳なさそうに答える、とところまでが
ある意味でテンプレート化しているのではないでしょうか。
なので、不快に思って何か反論したいと感じても
めんどうだし人間関係に荒波をたたせたくないから
「無難な回答」をする。
ガトー・ケイコさんはの回答は
テンプレート化した会話をポジティブに
ぶった切ったものだからこそ質問者はひるむのだと思います。
「無関心」が「無神経」を生む
「きらいだとか」「かなしがる顔をみたい」とか
そういう「関心をもってない」。
だからこそ、「無神経なことを」が聞ける。
申し訳無さそうにかなしそうな顔をして
答えるのが「テンプレート」としてあるから
質問者は深く考えない。
だから、今でも多くの母親や親という立場の人で
一人っ子だったり保育園に預けたりしないといけない人たちが
こころない言葉で傷つけられる。
でもその傷はなかったことにされる。
悪いのは「二人目を産まない母親」で
「保育園に預けている親」だから。
考えたことまとめ
- 「みんな」に好かれるのは不可能
- 人の視線を気にしすぎるのは自傷行為
- 無神経な質問は無関心から産まれる
- 申し訳ない顔するのがテンプレート
- 一人っ子かわいそう、保育園はかわいそうという既存概念強し