『FGO 徳川廻天迷宮大奥』復刻イベント。
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大奥イベント限定でマスタースキルが変更されます。
攻略を進めてく中で印籠(水戸黄門がいいところで掲げるあれです)を取得すると徐々に変化してきます。
スキル名は印籠に刻まれた将軍にちなんだもの。
徳川家将軍も有名所は知っているますが、何したのかわからない人もちらほらと。
ここは初診を思い出し、わからないことは調べてまとめてみようぜ!の精神を発揮してみました。
- ざっくり!印籠スキル名の解説
- 出典・参考
ざっくり!印籠スキル名の解説
(ほとんどネットから拾ってきました)
最初の印籠:徳川綱吉
五代目徳川家将軍。
徳川将軍の中でもよく知られている方だと思います。
天下の悪法、生類憐れみの令は悪い意味で有名でしたが、近年になって江戸の秩序維持、当時の人々の命に対する意識を変えた優れた将軍であった再評価されいる人物でもあります。
江戸の秩序維持に貢献した、優れた将軍であったと言う見方が主流となりつつあるのです。
生類憐れみの令(しょうるいあわれみのれい)
単純明快に「この世にいきるすべての命を大切にしましょう」という趣旨のものですが、その範囲が人間や犬猫だけではなく鳥や魚の殺生禁止。
なので釣りもだめ、うなぎもとってはだめ、もちろんどじょうすくいも販売もしちゃいけません、という厳しすぎるものでした。
命を大切にしましょうという精神はまっとうなものなのですが、内容が内容なので当時の人々の生活に多大なる悪影響を与えてしましました。
ただ、綱吉もやみくもにこのような令を制定したわけではなく、当時はまだ戦乱の時代の混乱がのこっており治安が世紀末並みのヤバさでした。
綱吉は「人は誠実であり、他者にやさしくあれ」という儒学の教えを受け育ちました。この混乱を収めるために人々に誠実さを求めた令が「生類憐の令」なのです。
やべぇ野蛮人をなんとか知恵ある人間にしようと頑張った案件でもあると思います…
犬公方(いぬくぼう)
公方は将軍の別の呼び方。
特に犬の保護に力をいれていた、犬を大切にする(たぶん皮肉)将軍だから犬公方。
犬を保護する屋敷まで作られ、保護された犬や約10万頭にまで登ったそうです。
天和の治(てんわのち)
綱吉の初期の施政(しせい)の呼び名。
生類憐の令と違い、初期の綱吉の評価は昔から高いです。
代官の不正を許さず、治世をうまく行えない大名はさっくりと処罰を与え、お家騒動?内ゲバする暇があるなら仕事しろ、許せねぇぞという確固たる姿勢をくずさず。
一方でまっとうな者たちには褒美を与え、腐敗しはじめた権力者たちを切り捨て、取り締まりました。
二つ目の印籠:徳川家継(とくがわいえつぐ)
※入手後、印籠スキルの生類憐の令が絵島生島事件に変更になります。
七代目徳川家将軍。
将軍になったのはわずか五歳。
聡明であると評判でしたが病でわずか七歳で死去。
絵島生島事件(えじまいくじまじけん)
家継が将軍であった時期に起こった大奥の情勢がひっくりかえった事件です。
ドラマ『大奥』でもテーマになり放送されたことがあったように思います。
この時期の大奥では家継の生母月光院を中心とする勢力と前将軍家宣(家継の父親)の正室天英院を中心とする勢力とがありました。
優勢なのは月光院側でしたが、事件を起こした江島は彼女側の人間でした。
あるとき、月光院の大名として墓参りにいった彼女に仕える大年寄(大奥女中の総頭で最高権力者に近い地位)である「絵島」(えじま)という女性が歌舞伎役者の「生島新五郎」(いくしましんごろう)との密通を疑われます。
発覚のきっかけは生島の歌舞伎をみにいったあとに生島たち歌舞伎俳優を招き宴会を開いたのですが、楽しすぎて門限を破ってしまったことにあります。
結果的に絵島は大奥を追放され、彼女の親類に罰が与えられました。生島は島流しにされ数十名にも登る人々が罰せられてしまいます。
この出来事をきっかけとして、月光院の勢力は徐々に衰え、天英院の勢力が力を持ち始めます。
三つ目の印籠:徳川家定(とくがわいえさだ)
※入手後、犬公方が日米和親条約に変更になります。
一三代目徳川家将軍。
大河ドラマなどにもなった『篤姫』の夫、として有名な方ですね。
病気がちでの身でありながら、動乱の時代に将軍になった人物。
脳性麻痺があったといわれており、乳母にしか心を開かなかったともいわれいます。
また顔に天然痘を患った時に痕が残っていて人前でるのを好まなかったとも。
日米和親条約
歴史の教科書で見たことある!でも詳しくは知らないので頼れるコトバンクさんに教えて頂いた。
幕末の嘉永7 (1854) 年3月3日神奈川で調印されたアメリカ合衆国との最初の条約。 12ヵ条から成る。神奈川条約とも呼ばれる
出典
ペリーさんが「カイコクシテクダサイーイ」とお願いしてすげなく断られ、二回目に突撃してきて結んだ条約のようです。
詳しい内容はこちらのサイトに記載されています。
5分で分かる日米和親条約!開港の目的や内容は?そして日米修好通商条約へ | 教養も ホンシェルジュ
四つ目の印籠:徳川家重(とくがわいえしげ)
九代目徳川家将軍。
※スキル天和の治が郡上一揆に変更
生まれつき身体が弱く、言語障害をもっていたのではないかと伝えられています。
歴代将軍の中で存在感がうすく、実は女性だったのではないか、などともいまれています。
郡上一揆(ぐんじょういっき)
1754年(宝暦4年)に「美濃国郡上藩」(みののくにぐじょうはん)で起きた大規模な一揆のこと。
重い年貢の取り立てに反発し、農民たちが起こしたもので四年間も続きました。
農民から藩主まで、幕府の首脳部まで処分を受けた唯一の事件です。
五つ目の印籠:徳川家宣(とくがわいえのぶ)
※スキル絵島生島事件が正德の治に変更になります。
六目徳川家将軍
第五代目綱吉の「天和の治」は踏襲しつつ、「生類憐れみの令」(しょうるいあわれみのれい)など後期に行われた政策は次々と廃止し、評価も高い人物。
将軍就任期間わずか三年で亡くなってしまいます。
正德の治(しょうとくのち)
家宣、家継、2代に渡って行われた政治改革のこと
優秀な文官が多く登用され、生類憐れみの令や酒税などの廃止が行われました。
この際に生類憐れみの令で罪人としてされていた約8000人を無罪放免としました。
六つ目の印籠:徳川家綱(とくがわいえつな)
※スキル日米和親条約が明歴の大火に変更になります。
四代目徳川家将軍。
四代目将軍家光が38歳の頃に誕生し、父の死後わずか11歳にて将軍に就任しました。
穏やかな懐が広い人格者であったと伝えられてます。
彼の時代に武断政治(ぶだんせいじ:武力を背景とした政治)から文治政治(ぶんちせいじ:礼儀や法令による政治)へ幕府の指針を転換させた三大美事(さんだいびじ)といわれる施策が行われました。
(末期養子禁止の緩和、殉死の禁止、大名承認の廃止)
明暦の大火(めいれきのたいか)
1657年(明暦3年)1月18日に江戸城下で起こった大火事。
3日ものあいだ燃え続け、江戸の約六割が消失し、死者十万人以上。
火の手は江戸城にも襲いかかり、本丸、二の丸、三の丸が焼け落ちてしまいました。
また、この大火事で将軍家が保持、江戸城にて保管されていた名剣名刀の多くが焼失した。
(二十箱(刀剣が約三十口ほど保管されていた)のうち十五箱の焼失)
以下焼失した刀剣一覧
(審神者として明暦の大火は…ほんと…どうして…)
七つ目の印籠:徳川秀忠(とくがわひでただ)
※スキル郡上一揆が武家諸法度に変更になります。
第二代目徳川家将軍。
父に徳川家康公、息子に徳川家光公と歴史に華々しい功績を残した二人に挟まれ、有名なことといえば「関ヶ原の戦い」に遅参したというちょっとかわいそうな人。
戦は苦手であったが政治的手腕は確かなものであり、性格も寛容な一面をもった人物だった様子。
武家諸法度
これは歴史の教科書で見たことあるっ…!!
マーカー引いたし、赤文字でノートに書きました。
記憶は当てにならないのでgoo辞典さんから引用
江戸幕府が諸大名を統制するために制定した法令。元和元年(1615)徳川家康の命により2代将軍秀忠のときに発布された13箇条が最初。その後必要に応じて改訂された。城の修築や婚姻・参勤交代などについて規定。
出典
高速参勤交代で有名な(?)参勤交代などはこれによって規定されています。
八つ目の印籠: 徳川家茂(とくがわいえもち)
※正徳の治が安政の大獄に変更になります。
十四代目徳川家将軍。
わずか14歳で将軍となり、派閥争いや外国からの外圧、朝廷との対立など歴史の波に翻弄され、抗い、亡くなった将軍。
公武合体(こうぶがったい)ー朝廷との関係を強化する-ために(大河ドラマ『大奥』で、安達祐実さんが演じた)和宮親子内親王と婚姻した人物でもあります。
温厚な性格で家臣たちから慕われ、夫婦仲もたいへんよかったそうです。
安政の大獄(あんせいのたいごく)
戊午の大獄ともいう。安政5 (1858) 年から翌年にかけて,江戸幕府が尊王攘夷派に対して加えた過酷な弾圧。
出典
この頃、日本は激動の時代でした。
ペリー来航をきっかけとした幕府の鎖国政策からの転換に朝廷は反発し、幕府内でも跡取り問題で派閥争いが起こります。
安政の大獄は、徳川家茂を将軍に推した井伊直弼が推し進めたもの。
朝廷を無視して、幕府が外国と条約を結んでしまったことに国民や一部の武士たちは大激怒し朝廷としても仲良くしようねって「約束(和宮の将軍家への降嫁)したのに嘘つき!!」と激おこ。
そんな中で幕府なんぞくそくらえという考えを持つ人々を弾圧していくのです。
有名な松田松蔭も安政の大獄で打首に処させれました。
九つ目の印籠:徳川吉宗(とくがわよしむね)
※スキル明暦の大火が目安箱に変更になります。
八代目徳川家将軍。
徳川家歴代の将軍の中でもっとも有名といっていい人物なのではないでしょうか。
時代劇『暴れん坊将軍』でおなじみの徳川吉宗公です。
大胆な財政改革や大奥のおけるリストラなどを実施、自ら質素倹約に努めますが、それが庶民にも波及していきます。
享保の改革(きょうほうのかいかく)と呼ばれる一連の改革は幕府の財政難を解消するためのものでしたが、中には庶民の負担を強いるものもあり、質素倹約を強いる生活に不満をつのらせていました。
余談ですが、そんな中「幕府の命令なんぞしるか!」と尾張徳川家藩主宗春(むねはる)は江戸で禁止された芝居小屋などを開店させ、商人たちにお祭りや出店などを勧めるなど真逆の製作を打ち出します。
名古屋の城下町は文化が発展し、賑わいをみせるのですが尾張藩の財政は悪化するし風紀は乱れるしで江戸幕府はブチギレ。
宗春は謹慎を命じられ、家督もゆずる羽目になります。
目安箱(めやすばこ)
享保の改革のひとつ。
一般庶民から政治の意見を求めるために設置された投書箱のこと。
特命での投書は許されず、名前と住所の明記が義務付けられていました。
将軍本人が目を通しており、役人や将軍を批判する内容を書いたモノが「よくぞ言ってくれた!」と褒められたこともあったとか。
実際に町医者の意見を取り入れ、養生所(無料の医療施設)が設立されました。
十個目の印籠:徳川家慶(とくがわいえよし)
※スキル武家諸法度が天保の改革に変更になります。
十二代目徳川家将軍。
ペリー来航のときの将軍。
将軍就任後も長らく、父であり前将軍家斉が権力を握っており、お飾り状態。
家臣を意見をいわれても「そうせい」(そうしろ)としか言わず「そうせい様」と揶揄られていました。
父亡き後、政策に力をいれようとしたところでペリー率いる「黒船来航」で、江戸中が大騒ぎに。
心労からか、黒船来航から約2週間後に急逝してしまいます。
天保の改革(天保の改革)
家慶が採用した老中・水野忠邦 (みずのただくに)という人物が主導した改革。
教科書には享保の改革、寛政の改革とならぶ、江戸の三大改革として記載されていた覚えがります。
庶民に質素倹約を強いる面もあり、不満をつのらせる負の側面もありました。
ちなみにこの改革をせざるをえなくなったのは家慶の父である前将軍、家斉がとんでもない浪費家だったため、町民たちの文化も開花したが同時に幕府の財政も圧迫させたことに原因があるそうな。
十一個目の印籠:徳川家康(とくがわえやす)
※スキル安政の大獄が江戸開府に変更になります。
いわずとしれた天下人。
江戸幕府を開いた初代徳川家将軍。
こんな辺境のブログで今更語ることあるか?ぐらいに有名な御方。
幼少期から人質として親元から話され、苦労の多い生活を送ってきた不遇な人生。
しかし、その生涯は現代人も知るとところ結果的に数百年まり天下を治め続けた江戸幕府を開くまでに至りました。
「人生何が起こるかわからんね、ほんと」って思わせてくれます。
個人的に徳川家康は織田信長や豊臣秀吉のような天賦の才能をもった天才ではなく地道に努力し、積み上げていく秀才であると思っています。
江戸開府(えどかいふ)
意味はそのまま。
幕府が開かれたことを指します。
江戸がつきますので、江戸に幕府が置かれて町が開かれたという意味になります。
十二個目の印籠:徳川家治(とくがわいえはる)
※スキル目安箱が打ちこわしに変更になります。
十代目徳川将軍家。
幼い頃から才気に溢れ、祖父である吉宗公に溺愛され育ちました。
成長してからも文武両道に優れ、素晴らしい君主になると目されていました。
正室であった倫子をたいへん愛しており、子ができなくてもなかなか側室を持たなかったとも。
ですが、愛妻であった倫子、側室が産んだ嫡子が次々と亡くなり次第に趣味にのめり込むようになっていき、政治は部下に丸投げするように。
打ちこわし
打ちこわしは江戸時代の民衆運動のひとつ。
今で言う暴動です。
不正を働いたと思われる人の家屋を破壊する行為です。
家治(いえはる)の時代に行われた打ち壊しを「天明の打ちこわし」と呼びます。
天明7年(1787年)5月に江戸、大阪などの主要都市を中心に数十箇所で同時期に起こり、翌月には石巻、小田原、宇和島などへに波及しました。
十三個目徳川家斉(とくがわいえなり)
※スキル天保の改革が寛政の改革に変更になります。
十一代目徳川家将軍
将軍在任期間がもっとも長い。
将軍就任当初はまじめに政務に取り組んでいましたが、年をへるにつれて反面自由気ままに贅沢三昧な生活も送るようになりました。
側室も多く抱えており、子供の人数も多かったので大奥の経費も莫大なものでした。
反面、家斉の贅沢な暮らしぶりこそが華やかな町人文化、「化政文化」とのちにの呼ばれる文化を開花させたといえます。
彼の散財ぶりに幕府の財政は火の車となり息子がその尻拭いをする羽目に…
寛政の改革(かんせいのかいかく)
江戸の三大改革のひとつ。
当時の老中、松平定信が主導して行われた改革。
質素倹約を勧めたり、大奥の経費削減をしたり、農民を農村に返したり、米を蓄えさせたり…と真面目に推し進めていた。
真面目すぎて締め付けがつよすぎる!と庶民や批判をうけて松平定信は失脚してしまいます。
(※随時追加する予定)
出典・参考
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